埼玉大学周辺地域の歴史

048-857-2233

営業時間10:00~18:00 定休日2月3月無休(他 水・木定休日)

埼大辺り歴史物語②平安時代~室町時代

埼大辺り歴史物語埼玉大学のある この辺りは歴史の宝庫、縄文から江戸へと歴史散歩をして見ませんか。
昔の道は志木・富士見市から荒川を羽根倉の渡しで渡り、埼大前を左へ折れて諏訪坂を上がり国道17 号バイパスを横切って与野本町へ続きます。

4、平安時代< 埼大通りに更級日記の作者が! >
大ケヤキの東側一帯は大久保領家片町遺跡と呼ばれ軒丸瓦や平瓦も多数見つかり、井戸や大型の建物跡もあることから寺院が官衛(足立郡の役所)と考えられます。
役人が腰に巻いたベルトに付ける「巡方」と呼ばれる階級を表す石帯も見つかっています。
更級日記の作者菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が父の任国上総から京へ帰る途中荒廃した竹芝寺に立ち寄る場面がありますが、武蔵国たけしば寺がこの地だとの説があり

ます。武蔵竹芝は武蔵国足立郡司で、この地が足立郡の官衛ならば、ここに在ったことになるのです。
東京都港区にもそれを伝える地がありますが、平安末期の頃は温暖化で海水面が上がり、通れなかったはずと言われています。

図4

5、鎌倉時代< 埼大通りを頼朝が通過? >
鎌倉街道とは江戸時代の呼び名で当時は上道(かみつみち)群馬方面、中道(なかつみち)東北へ、下道(しもつみち)茨城・千葉方面、の3つが主な道でした。
上道を所沢で分岐し、志木・富士見へ抜け羽根倉を渡り与野へ向かう間道が羽根倉道と呼ばれていました。
羽根倉の名は関根氏の矢羽の倉があったからとか、市場を仕切る羽根倉次郎の名から、また河川から採る埴土(はにつち)からなどの説があります。
平家を滅ぼしたときは鎌倉にいた頼朝ですが、義経を討った奥州藤原氏を滅ぼすときは自ら出陣しています。
嵐山に本拠を置く畠山重忠や足立遠元にゆかりの地も桜区道場や、西区島根にあり、埼大通りを鎌倉武士が駆け抜けていったことでしょう。

図5

6、室町時代< 埼大通りで合戦が>
鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏は後醍醐天皇を吉野に追い払った後、弟直義と戦います。
いわゆる観応の擾乱で1349 年から52 年までの抗争で羽根倉の渡しをはさんで尊氏側の高麗経澄と直義側の難波田九郎三郎が戦い難波田氏が討死しています。
難波田氏は武蔵七党の村上党の金子氏の別れで地名を氏としました。
荒川を渡った富士見市には難波田氏館跡があり公園として整備されています。
埼大周辺は昔シドメッパラと呼ばれ、血止めに効く草が生えていたからだとか。
この草が矢傷の手当てに使われたのかもしれません。

図6-2

※本記事は 「郷土史研究クラブ 榎本髙信様」ならびに「埼大通り商店会様」にご提供いただきました。
作成にあたり、さいたま市・与野市・富士見市出版の文化財資料を使用させていただきました。
文責:郷土史研究クラブ 榎本髙信

最近見た賃貸物件は登録されていません。